衆生
玄奘訳では有情と表記する。「梵に薩という。ここに有情という。
情識あがゆえに」といわれるように、感情や意識をもっているものの意味で、山河大地などの非情に対して、一切の生きとし生けるもののすべてを含めていわれる。
この点で、多くのものが共に生存しているという意味で「bahujana」といわれ、衆人と訳される。
衆生の中には、動物も含めてみる。その点、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏といわれる十界の中でも、一般的には前の六道にあるものをさす。
したがって、衆生は、そのまま人間のことではない。
この意味で「わたくしは人間である」といういい方は、仏教では適当でなく、厳密には「わたくしは人間界の衆生である」というべきでる。
仏教で人間は、サンスクリット語で「マヌシャ」といわれ、ヨーロッパでの「マン」「メンシュ」と同じく「考えるもの」の意味である。
仏教では人間とは人間の境界のことで、単なる個人とは考えず。
情識あがゆえに」といわれるように、感情や意識をもっているものの意味で、山河大地などの非情に対して、一切の生きとし生けるもののすべてを含めていわれる。
この点で、多くのものが共に生存しているという意味で「bahujana」といわれ、衆人と訳される。
衆生の中には、動物も含めてみる。その点、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏といわれる十界の中でも、一般的には前の六道にあるものをさす。
したがって、衆生は、そのまま人間のことではない。
この意味で「わたくしは人間である」といういい方は、仏教では適当でなく、厳密には「わたくしは人間界の衆生である」というべきでる。
仏教で人間は、サンスクリット語で「マヌシャ」といわれ、ヨーロッパでの「マン」「メンシュ」と同じく「考えるもの」の意味である。
仏教では人間とは人間の境界のことで、単なる個人とは考えず。
update:2010年02月22日
